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コラム

加藤、いったん敗北
しかし、やはりやがて新党は出来る

――自民分裂・政界再編の新局面

河上京大教授の
今回の加藤政局への歴史的評価

栗本オピニオンレーダー・エッセイ
2000/11/21 0:14
2000/12/08 11:20追加

2000/11/18 もはや後戻りはない
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 20日の国会では、午後9時の本会議直前に加藤、山崎が不信任案に出席して反対ではなく、2歩も3歩も後退した欠席戦術を余儀なくされて『一敗地』にまみれた。

   テレビに映る加藤の顔は、精一杯淡々としてはいたが、心の底から悔しさがにじんでいた。それでも、動き出した自民崩壊のドラマは幕を下ろさない。最終的に加藤、小沢、鳩山の新党が出来るだろうが、遠回りになっただけだ。小沢は加藤に相当文句を言っていたが、加藤に対する期待を特段に高めた反動である。他日の合同は、ほぼ確実である。

   ところで、加藤が『敗北』したなら、別のかたちで自公保反対の保守新党(リベラル新党?)の動きが活発化してもおかしくない。参院選にせよ何にせよ、選挙の前が改めて勝負になってくるであろう。


下は、11月25日の朝日新聞夕刊関西版に掲載された、河上倫逸京大教授の今回の加藤政局への歴史的評価である。

   「加藤、破れたり」、「加藤、もうあかん」と言った近視眼的な論評の多いなか、さすがに優れた分析になっている。ヨーロッパ、ことにドイツの近代法思想史、あるいは国家及び市民の概念や意識の研究をされてきた眼からのものである。教授の許可を得て引いてみたいと思う。ところで、私の名前が登場するのは、私が勝手に入れたものではない。


第三の「改革」まず半歩

藤紘一氏らによる森内閣不信任案「騒動」は、一場の終幕は迎えたようである。そこから、失われた期待に対する挫折感、政治不信が世間に広がりつつあるように見える。しかし、「騒動」の底流にある動きは現代政治史の中から生まれた、いわば必然的な潮流として引き続き慎重に見極める必要があるだろう。

明治維新を日本にとっての第一の改革と位置づけるとすれば、第二次大戦後のそれは第二の「改革」であった。そこでは例えば、女性の参政権などを認めるに至ったが、少なくともアメリカとの関係については、いまだ対等・独立なものではなく、五十年近くそうした状態が続いてきた。

   それに対し、今や第三の「自由民主改革」のときを迎えている。それは「小さな政府」「構造改革」等を中心とし、かつアメリカとの同盟関係にあるが、しかし、対等・独立の日本を目指すものである。例えば憲法においても改正を含めた論議を前提にしたものとなっている。

この未完の第三の「自由民主改革」はそうした点において明確に評価すべきものであって、今後とも行方が注目される。その担い手とは、このたびの「騒動」の中心的存在であった加藤、山崎拓といった人々である。しかし彼らに限らず、民主党の鳩山由起夫、管直人、さらには自由党の小沢一郎といった人々もやがては合流していく公算が大きいと思われる。

   既に「必ずや結束して新党を結成する日がくるであろう」 (栗本慎一郎氏) との評価もなされている。また同時に、横路孝弘氏を中心とした民主党の一部は社民党と合流するか、あるいは発展的解消を遂げる可能性が予想される。

こうしたシナリオは、既に多くの人が気づいてはいるのだが、いまだ国民の常識といえるほどのものにはなっていない。しかし、二十一世紀には大きくクローズアップされることとなろう。

   去る二十一日未明の出来事に関して言えば、加藤派、山崎派に対する徹底し た切り崩しが行われた。加藤派は二十一名が本会議の採決に欠席したが、二十四名が不信任案の反対に回り、山崎派では十七名が欠席、二名は反対に回った。ダメージが大きいのはむろん加藤派である。しかし、第三の「自由民主改革」はともかく動き出したことに注目したい。

   今回の加藤氏らの行動は、時期尚早、突然のことなどと評される半面、むしろ遅すぎたとも言われている。小淵前首相が亡くなる以前から、こうした「改革」を唱え、同首相の死後、加藤氏が総裁になると予想したものも多かった。しかし、自民党「主流派」はこれを拒み、森首相の誕生を見たのである。

   対して、加藤氏は目指す「改革」を実現すべく、山崎、鳩山、管、小沢ら諸氏との連携を行おうとした。にもかかわらず「改革」は「半歩」にとどまった。加藤氏の政治生命が絶たれたといった論調が生まれるのも当然と言えよう。だが、今回の「騒動」はその種の次元で論じ尽くされるものではなく、「改革」は今後とも継続するであろう。

   なぜこの時期であったのかも含めて、加藤派、山崎派 (そして実は小泉純一郎氏もそうであろう) の目指す「改革」とは現在の「主流派」 (宮沢喜一蔵相も含む) が目指すところとは異なったものである。「主流派」は、国家予算の赤字総額をさらに増大させる道を歩んでいる。これに対し、「非主流派」が目指すものは抜本的な赤字の解消を目標とした「改革」である。

   さらに「改革」に関して、若干の例をあげておこう。例えば、「小さな政府」とはいえ、基礎科学研究を重視し、そうした領域にはむしろ国家的奨励を試みようとしている。その様な基礎研究の領域は自然科学だけでなく、文化化学にも広範に存在する。例えば、「基礎法学」といった分野がそれである。

   憲法問題も第二の「改革」以来、改正論議は困難と思われてきた。そのために、自衛隊が日本国憲法と両立するかと問うたとき、国民の多くがこれを両立しないと予感していた。しかし、現在においては両立するという意識もありえよう。第三の「改革」は加藤・山崎、鳩山・管、小沢と言った人々の議論とともに、そこにおいて最も中心的な位置を現在も占め、また今後とも占め続けるであろう。

   いま、世上を覆い兼ねない政治への幻滅、シニシズム(冷笑主義)は、むしろ危険性をはらむことを歴史は教えている。ともかく「半歩」に注目したいと思う。


――――――河上倫逸(かわかみ・りんいつ)京都大学法学部教授・法思想史
――――――朝日新聞11月25日土曜日夕刊関西版


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