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ホモパンツ・フィロソフィー

半身麻痺からの復活
理論篇2

栗本流 哲学・生命論
フィロソフィーバックナンバーINDEX

■意味と生命心身論後説…闘病篇
■半身麻痺からの復活─ 実践篇2 理論篇3
1リハビリテーションにおける心の役割
2心と身体

リサーチレターの解説
   このリサーチレターは、論文というより、研究中途報告といった性格が強いものだ。

   ただ、ここで驚くべきことは、不明の一人を除いて、すべて50歳以上の中高年の患者で、超重度の一人を含めて、多くが重症の麻痺者が被験者だということだ。そして、療法プログラムもまったく本人たちの自由という、きわめてアメリカ的おおらかさの療法実験であった。おそらく、被験者の「快感」が神経回路の回復に役に立つだろうという推測がされていたのではないか。それは、実質的な指導者であるラマチャンドラン所長の他の著書を読むと推測してもいいことだ。

   栗本慎一郎理論的に言えば、「パンツをはいたサル」ではなく、「パンツを捨てるサル ── 快感はヒトをどこに連れて行くか」で、述べたA-10神経との関わりがあるだろう。

  中脳のうち腹側被蓋野に発するA10(エーテンと発音)と呼ばれる神経の流れは、大脳の中で最も古い起源をもつ大脳辺縁系の中の扁桃体(核)に入る。扁桃体は、怒り、恐れ、警戒などに関与する。スポーツ競技にたとえて言えば、、これまで、レギュラーと認められ登録もされてきた選手たる神経回路に試合の出場権を譲ってきたが本来なら十分能力のある控え選手がいたのでその回路に出場を願わなければならないというわけだ。そのためにリハビリをやっているのだ。また、6ヶ月で快復が停まるなどと非科学的で無責任なこと(少なくとも、大きな科学的反論と実例があるではないか!)を医者に言わせず、勇気と希望をもって行かねばならない。。そういうときに、集中感と安心感を持たせる必要がある。それは、『脳は、モジュールの集合ではない』(ラマチャンドラン)だからこそ、可能なことだ。A10神経は、ここに大きな働きをする。

   さらにA10神経は扁桃体へ行くものと枝分かれして海馬にも入っていく。海馬は、記憶や学習と深い関係にあって、控え選手の当初のプレーの仕方(つまり、筋肉の動かし方)を学習させるのに必要な役割を果たす。つまりごく簡単にいえば、快感や楽しさは学習に非常な意味を持つのだ。

   心理学的な意味ではなくて、脳神経学的にである。泣きながらのリハビリより、楽しみながらのリハビリのほうが、見た目や気分だけでなく、神経回路の活性化にとっての効率もいいのである。

   これからの話しだが、、経済人類学者としてではなく、左麻痺者でミラー・セラピーを独自にも応用しているものとして、この研究グループの連絡責任者たるアルツシューラーにEメール等で交流して、相互チェックしていくことにする…しかし、私がかつて経済人類学を導入したときより、はるかに遅いペースになることは許していただきたい。何しろ、何をするにも非常に疲れるのだ。

   しかし、以上のことを知りながら私たちは、アメリカ式と違って蓋のある栗本式ミラー・セラピーボックスで「カリキュラム」を組んで、自由に、つまりbootstrapping的にではなく、それなりの使用法を作って行くことにした。なぜなら、麻痺側の動きに脳を集中させ、問題の快感を増させるためだ。また、左右両側の動きを完全に同期させるのには介助者が必要であるからだ。そして、むしろ介助者から、イーチ、ニイと音頭を取って動作させたほうが両側の動きが合致しやすく、脳内にも違和感を生じせしめない。…日本人は、音頭が好きなので良いのかも知れず、アメリカ人にも一応奨めてみるが喜ぶかどうか分からない。

   私が、最初に自分で実験したとき、NTT東日本伊豆病院の山崎多紀子療法士に介助を頼んだのだが、その日まではまったくできなかった左手の親指と小指をくっつけてマルを作る動作が栗本式のヴァーチャル・リアリティ・ボックスで5分、試行した直後に出来てしまった‥この後、筋肉痛が別の理由で発生し『出来ない日もある』ことになったのは残念だが、神経回路は5分で奇跡的に繋がったのであった。…思わず、私は、グルかなんかに成れるのではないかと錯覚したくらいだ。因みに山崎療法士と私はグルになっているわけではない。真面目に取り組んでいるだけだ.
 ところで、われわれは、最初から、半透明版は使わなかった。なぜなら、脳神経回路の集中力が明らかに殺がれると、私は確信していたからである。‥別記論文の細かい資料をチェックして、アメリカでも鏡療法の優位性が確認されていることを見たのはその後のことである…。そして私自身は、マルを本当に作っている右手は見ないことにした。これも集中力の問題からだ。

   鏡の中の左手がみごとな、マルをつくり、実際の左手も山崎さんの助けによってマルを作ったとき、私は思わず、「ああ、気持ちいい」と言葉を発してしまった。以降、ほんの5分ほども麻痺している指を動かしたあと、箱から手を出して、自分で親指と小指をくっつけ合わせようとすると、「見事に出来た」のであった。あまりの即効性に私と山崎さんは顔を見合わせる。「そんな、早すぎる」と両方とも思ったのだ。実はやはリそれは早すぎたのであって、箱から手を出したままにしておいたら、さらに5分後には、以前より状態は良くなってはいたが、まるで超能力のような効果はなくなっていた。

   おそらく、まだ新しい神経回路は強力に新登場の主張はしていなくて、指の回りの筋肉の腫れと筋肉自体の疲れがまさってしまったのである。でもそれだって、この療法の効果を信じさせるに十分ではないか。

 
 

   ここでこのミラー・セラピーが生まれてきたプロセスを述べておくことにする。ラマチャンドランはまず、手足が切断されているのにその人がまだその手か足が「ある」と感じるについての旧来の医学の見解、・・・まだあると無理に信じようとする精神的後遺症であるとする・・・に疑問を抱いた。もしそうだとしたら、その幻肢が麻痺したり、普通より短い場合があったり、生まれながらに手足のない人にさえも幻肢がある例を説明できないではないか。

   幻肢は、脳梗塞がもとで死んだ私の父も持っていた。そして父は死ぬまで切断された足の痛痒感にさいなまれ、息子の私も含めそのことを十分理解してやれなかったものだ。拙著『意味と生命』には、ヒトの身体像や感覚は可動的で相対的なものであるという現象学哲学者モーリス・メルロ=ポンティの考察‥主として『知覚の現象学』、『見えるものと見えないもの』‥をめぐって経済人類学的哲学を展開した。また、死んだ哲学者丸山圭三郎との最後の対話も幻肢を巡ってのものだった。
 ラマチャンドランは、手足がなくてもそれに対応した感覚をつかさどる部分が、具体的に脳の中にあることを発見して幻肢の謎を解いた。幻肢は、ヒトの脳の中に感覚回路が残っているから、その意味で実際に『ある』のである。また、興味深いことに、脳の中でそれに隣接する部分の回路も、当然、あって、それらが相関する事がよく発生することも確認された。

   われわれのように持っている腕が麻痺するのではなく、実際には「ない」幻肢の腕が麻痺するといった、極めて厄介な症状上の混乱は、そうした相互干渉的な回路の『混じりこみ』が生んでいる場合が多いことも発見された。たとえば、小指の感覚は、下あごの感覚をコントロールする部位に近く、親指は頬のそれに近い。したがって、幻肢の小指のかゆみは、下あごを掻くことによって解消しうるのだ。『正常な成人脳には、じつはおびただしい結合の余剰性がある』(ラマチャンドラン、『脳の中の幽霊』邦訳67ページ)というのは、同じことを私たちも言ってきたものだった。

   だから、私は、栗本式片麻痺治療器具の使用法にこのコントロールする部位の隣接を利用することも考えている。たとえば、親指と小指を必死に接触させようと努力しているときに、別のヒトにあごと頬をマッサージしてもらうと効果も快感も増すはずである。

   ラマチャンドランたちは、最初に幻肢の治療に用いたミラー・セラピーを、自分の目で見て、麻痺してしまったと脳が思い込んでしまっている、いわゆる『学習された』麻痺の患者 (これも、別に主観的な問題ではない。脳がそう指令してしまうことなのだ…間違いなく、私の強烈な疲労感も脳が関係している。だから、大和魂だけでは解決できるものではない。大和魂は、きっと大きな事故を生む) に治療上使えるのではないかと考えた。そして、それなら麻痺を「学習」してしまってから長い、つまり、発病が古い麻痺者にも有効なはずだと考えたのだ。だから、被験者の多くが発病歴が古い人たちであった。

 そして、見事に、症例は確かに少ないが、両者の方法を合計すれば100パーセントの効果をあげたのだった。派手に言おう。100パーセントである。ただし、最初の透明版を用いて少し効果がでたが、その後ミラーを用いて、そこから進まなかったという人も出ている。また、もし評価基準が実験を開始する前の状態だとすると、患者3や4は、元に戻っちまったのかという疑問もありうる。ここらは、平山さんの方からでも、ラマチャンドランに確認したい。だから、地味に言うと44〜70パーセントの効果か?‥これでも凄いが。

   私は、それなら、私のように発病後、時間のたたないものにも脳神経回路回復という点で、効くものは効くと考えたのだ。どうやら、『栗本式』はアメリカ式やヨーロッパでも用いられているものより、視覚の集中度が良いものらしい。3年前、パリのムーランルージュの最前席で、双眼鏡を使って美人ヌードというか、その肌の美しい輝きに関する視覚訓練に集中していたところ、踊り子の親分さんのような凄みのある美人が出て来て『駄目よ、お客さん、かぶりつきから双眼鏡なんか使って集中しすぎると効きすぎるわよ』と注意されたことを思い出しつつ、箱を試作した(ジョーク!)。だが今は、効きすぎて困ることは、私の左手の親指と小指のような筋肉の痛みである。

 ラマチャンドランにはそういう視覚集中効果実験の経験はなかったらしい。

―――『私の身体が知覚するのではなく、身体は、いわばそれを通して顕わになる知覚の周囲に組み立てられている』(モーリス・メルロ=ポンティ)ものならば、『組み立てなおしてみようではないか』。

----左手の各感覚が身体のすべての諸部分の同属の諸映像の中に入ってきてそのなかに位置を占め、それらの諸映像が互いに連合してその結果左手のまわりに、二重写しのなった身体のひとつの素描のようなものが形成される、というのでは十分ではない。これらの諸連合がそのつど単一の法則によって規制されているものでなければならず、身体の空間性が全体から諸部分へ下りてくるものでなければならず、また左手とその位置とが身体の包括的な計画のなかに含まれていてそこにその起源を持ち、かくして、左手が単に一挙に右手に重ね合わされるとか右手に襲い掛かって来るとかいうだけではなしに、さらにすすんで右手とひとつになってしまうようになる、というのでなければならない。(モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の現象学」1、竹内・小木訳73−74ページ)・・・え?分かんない?でも、こういう訳なんだ。

―――視覚内容が思惟の水準において把えなおされ利用され、包摂されるのは、視覚内容を超えたひとつの象徴能力によってであるが、しかし、逆に、この能力が構成され得るのは視覚を土台としてである。(同、215ページ)

(栗本慎一郎)

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